猫の去勢避妊手術について



野生動物の場合は、数が少ない種は保護・繁殖させる。

一方で、猫は人間社会に住み、表面的理由は「放って置くと数が大きくなりすぎる」からという理由で去勢避妊される。

なぜ人間がそれを勝手に調整しようとするのか??
・・と、ふと、思う。

かなり強烈な同調圧力が裏にあるのではないかと私は疑っている。
避妊去勢を正義とする人々の多くがあまりにヒステリックであり、答えも決まっている。なぜ答えが決まっているかというと、その裏には何か隠されたものがあり、それ以上のことは言えないに決まっているからだろうと思う。

それ以上言えば、彼らが正当化する際振りかざす「正義」が、完全に崩れてしまうような「隠された何か」があり、「正当な理由」が袋小路で、つかえているというわけだ。

【殺処分ゼロ】という言葉の裏に、「避妊去勢」がある。

しかし、手術される猫たちにとってこれは【断種】に他ならない。

コレは人間の権限のみによって実行される。
猫のためではないのは確かだ。
「猫が保健所に送られて殺されてもよいのか!」・・と彼らは言うだろう

・・もちろん、それは良くないだろう。しかし、後一歩考えてみると、「保健所に送る必要がある理由は?」

誰かが野良猫を邪魔だと思っている。少なからぬ人々にとって猫は「害獣」なのだ。
それは各々の所有物・土地などに関係する。



ストレスと、不思議な義務敵飲酒。

毎日我慢していることについて。

この頃我慢していることが多くてそれが様々な問題となって表面化してきている。飲酒、眠剤増量、人格倍増(笑)

『この土地に住んでこの土地の人間と関わり合いを持つ』という、逃げようのない日常的な重圧抑圧だけでもキツイのだ。

金でなんとかなることは結構ある。特に今の環境に置いてはあらゆることが解決可能であるが明らかだ。金がわんさかあれば困ることも減るだろう。

金を使えば地元民との接触を避けることだってできるのだ。
さっさと引っ越せるのだ。

あまりにひどい仕打ちを受けたら、それなりにやり返すことだって可能だろう。モラルとカルマの許す限りで。

それがいま、何もできずにいる。
引っ越そうと思った場所は現在、コロナ騒ぎで全国民が知るような大変な事態に陥り、引っ越すどころではなくなったし、不動産は何故か「売り切れ」だそうだ。不動産事務所で「〇〇区の物件売り切れ」、、、全く聞いたことがない言葉だがそんな文字が記事を埋めている。

何という乱痴気騒ぎ。

いまにも地球が反対に回りだすのではないかと本気で感じている。
というか、すでに反対周りになった結果がこれなのか?

一ヶ月前後まえから毎日酒を飲むようになった。
しかしなぜ毎日飲めるのかわからないし、不自然で恐ろしい。

以前、私は毎日酒を飲むことができなかった。3日間隔を開けなくては無理だったにもかかわらず、現在は毎日飲んでも、まるで二日酔いにもならないし、まるで睡眠欲のように不自然で自然な『飲酒欲』とでもいう感覚で飲むようになり、余計に恐ろしい。

今夜も『飲酒欲』はやってくるのだろうか??

【ニワカアル中】にでもなったかと思っていたのだが、症状はその不自然にも自然すぎて恐ろしい「飲酒欲」だけだ。

しかも飲みたいとも思っていないし飲んでもなんでも無い。水のように飲んでいる。習慣と化し、まずく感じ始めたりして途中で飲むのをやめて他のことをしたりする。とても不思議だ。

なんとなく「今日も飲んだ感」さえクリアすれば、自分の気持ちの中で何かが納得する、というだけである。

そこには一欠片の悲惨さもない。苦しみもない。でもやはり、勝手に体が動いて好きでもないものを飲む(でも嫌なので吐いたり)のは苦しい事といえるだろう。

もし金がなくて買えなかったとしても、「えー?まじ?」と思ったまま、、、それだけだろう。

それほど薄い欲しか無い。習慣化し始めたばかりだからだろうか?

もともと酒を飲むことがあまり好きでない。好きな酒は一つあるが、それ以外のものは嫌いなのだ。

今飲んでいるのは好きとはとても言えないが、飲めないこともない、というくらいの酒だ。(私にとってこの世の半分以上の酒は、口に入れた途端に吐き出すレベルである)

飲酒欲なんかよりもより強く私の感情を掻き乱すのは、近くのコンビニの店員である。
本当に、わんさか金があれば全て買い物代行にまかせるだろう

アルコール99%の消毒液をその不謹慎極まり無い口や顔にスプレーしてコロナ対策やりたいほどに私の心をかき乱す、あまりに失礼なコンビニ店員。

もしかしたら、このストレス下でもがく自分の心が、「つじつま合わせ」をするために、「アル中のフリをしろ」と私の行動に働きかけているのかもしれない。

だって店員があまりにひどい。というかこの街全員があまりにひどい。
それは全国民や在日欧米人も知っているほどにひどい、、、ッタレ共なのである。


あああもう早く引っ越したい。台所には昨日残した酒が残っている。
飲みたくない。しかし寝る前になったら、体が動いて、吐いてでも飲むふりを始めてしまうのだろう。

皆さんこれは冗談じゃない。

こんなこともあるんです。

誕生と死

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殆どの人々は,訳も分からず,まだ生き足りなかったと思いながら死んでいくのだろうか?
死に際に何を考えるのだろう。
人間として生まれながら,社会の中で皆がほぼ同じように生きてゆく。
学校に行き,仕事をし,ある人は経済的に成功し「誰もがうらやむ生活」を手に入れる。
「誰もが望む人生」とは何なのだろうか?
経済的に何の心配もないという事。
日銭を追って生きる人生を超えたところにある人生には何があるのか?
セレブの生活があるだろう。自分の実現したいことを実現し,ある人は大自然の中に,ある人は大都会のど真ん中に住み,それでも社会に参加し,寄付などをして名誉を買ったりするが,一方,貧しく家もない人々がそれで助かった,という話はあまり聞かない。
マザーテレサにしたところで,貧しく病気で死にゆく人々に寄り添ったかもしれないが,その前の段階で貧困を止めたと言う訳ではないだろう。
「ユニセフ大使」にししても,同じこと。
「恰好ばかり」に見えて仕方がない。「偽善」という言葉が否応なしに浮かんできてしまう。
自己実現というが,自己実現が簡単に出来てしまった後,ヒトは何を求め始めるのだろうか?
子供を育て終わり,家族で生き続ける人達もいる。彼らは最後まで幸せそうに見える。
人間としての幸福はその辺りにあると言えるだろうか?これも一つの事実だと言えると思う。
だが,日銭を稼ぐ多くの人々は,「自分が自己実現できている」,と感じてはいないだろう。
自らがそのような状態にあると気付いてしまった場合,すでにもう,自分の望みなど日常という雑音に掻き消されてしまい,何をすればよいのか,それどころか,「何がしたいのか?」ということさえ,曖昧模糊とした未来でしかなくなり,文字通り「日銭を稼ぐ」だけが存在理由になってしまっているのではないか。そうなってしまったら,そこから抜け出すことは難しくなる。
死の間際
この世の活動を終えるとき
人生を考え直すとき。
死の間際は
今この時だ。生まれた瞬間から
人は死を待っている
残り時間の中に存在している
寿命は延び
動くこともままならず,意識さえなくとも生き続ける
「死と隣り合わせ」という言葉は,別に危険な環境で生きている人だけに当てはまる言葉ではない。これは,人間すべてに当てはまる言葉だ。
「人の誕生」自体が「死」を内包する。
生まれた者には,必ず死がやってくる,という事だ。
いくら安全な社会に生きようとも,全ての人が寿命を全うするわけではない。
しかし,大多数が命を落とすことなく,危機感を持たずとも生きられる日本社会に生まれ育てば,「死」というものは日常とはかけ離れた未知の恐怖として心理の奥底に押しやられ,日常の中で意識することはない。
それにもかかわらず。「生まれた者は死ぬ」というのが,この世で初めの真実であることに変わりはないのだ...。

(脱線しまくり)ヒトとしての野生と飼い猫の野生の比較 -2-まとまらない話

まずは,母猫から離され,恐らく記憶も及ばない幼児期に人間のところへやってきて,周囲の人間で親のようにふるまっていると認識された人間を親のよう(決定的に親という認識ではないかもしれないが,❝あたかも自分の親である❞かのように,)に扱い執着する状態を,人に当てはめてみる(無理矢理)。

幼いころに,養子として白人の里親の元にやってきて育てられたアジア人種の子供は,はじめは自分を白人だと思い込むようだ。
人間の場合は成長するうち人種という概念(人種と言っても大雑把に,白黒黄と分けられている肌色の違い)を知り,自分と親の人種の違いを知り,強烈なショックを受ける。自分が自分と思い込んでいた存在の根本が崩壊してしまう(アイデンティティの崩壊)からだ。
中には,薄々気付いているにもかかわらず,それを否定し続ける事に執着する者もいるという。前者は相当な短期間のショック状態を経験したあとにトラウマとして残りながらも復活の見込みが十分にあるものの,後者では自分の中に明確な矛盾を抱えたまま生きてゆくことになるので,その緊張状態が精神や社会生活を崩壊させることに繋がる場合もあるだろう。

飼い慣らされたヒトとしての動物,即ち人間社会に生きる人々
飼い慣らされたネコ科動物,飼い猫たち。

同種の動物が,家族という単位を超えた種の集団を形成して生きるとき,その社会には多くの掟が存在し,人間の場合は殺人が法度となるが,喧嘩も争いも絶えることがない。
そこにヒト科動物としての限界が見られる。争う事は,動物世界では当たり前の本能だ。
いくら人間社会が長く続いていようが,発展して宇宙に住もうが,きっと争いの本能までが無くなる事はないのだろうと思う。

しかし,人間として生きていくうえで,何をもって自らを人間とし,社会の目的をどこに設定するのかを考えたときに,「ヒト科動物の本能がそうだから,争うし殺す。」では答えにならないだろう。それは動物の本能であるというだけだ。

「目的などない」のかもしれない。
しかし,多くの人間が「生まれた意味・生きる意味」への答えを求めて生きているのは事実だ。
もちろん,達観した人々もいて,すでに,彼らの思う人生を生きている人たちもいる。

人類愛やモラルを説こうという気もない。
神や宇宙人を引き合いに出す気もない。
しかし,本能に従って生きるだけが良い事だとも思わない。
この世において,何とも宙ぶらりんな存在が,人間という立場だ。

では自然に答えがあるのか?

一つ思ったことがある。
自然・野生動物には,神という概念はない。ここでは便宜的に,「神」という言葉で括られる領域とは,「人間にとって,理解の及ばないモノのとその周辺」であるとする。ここでは,いわゆる「自然の摂理・秩序」という事にしておく。
自然・野生に自然の摂理への疑問がないのは,地球上にある自然・野生の存在は,その摂理・秩序によって生かされているだけであって,そのため「疑問」が湧くことはない。

人間の言う「神」には,人間自身から発せられた疑問符がついている,と私は感じる。
というより,人間には「見えない領域」なのではないのか?と。
自然の領域をはみ出し,高度文明社会を築いてきたが,しかし一方で,その精神は古代も現在も変わることがないのが人間という存在だ。

いつどこで人類の始祖たちは,自然や野生に生きる事を自ら辞退して,動物界唯一の地位を獲得したのだろう?他の集団を殺して生存圏を拡大する,という所までは,社会性昆虫・動物であっても同じことだ。

長くなりすぎているのでここで終了。

(脱線しまくり)ヒトとしての野生と飼い猫の野生の比較 -1-まとまらない話


人間として普通の殺意

そう書いたまさにその瞬間に考えていたことを忘れてしまったのだが,「人間が殺意を持っているのは自然な事ではないだろうか?」という,なんだか少し危険な香りのする疑問。

でも,雑食動物や肉食動物は,殺して食べるのが普通,というのがまず頭に浮かんできた。

元々のヒトという動物,社会動物として人間社会で生きていくという意味での人間とは切り離されたところの,ヒトという生物として,という意味ならば,分かりやすいと思うし,その状態は自然なものだと思う。

この点においてはあまりに普通のコト過ぎて,意識して想い出さない限りは,忘れてしまうほどの内容だ。
他の動物については,言うまでもなく人間は全て殺して食べているのだから,もし人間社会という様々な制限のある環境ではなく,自然に一人,人間社会を離れ,人間としての言語さえなしに生きる事になったとしたら,人間はひとりでに自分で動物を狩って食べるだろう。

それは誰にも否定することの出来ない,社会に影響されない裸の人間の姿だ。

猫を例にだしてみよう。
猫は人間の最も近くで,しかも人間に世話をされながら,時には神として崇められながら生きてきたという,動物としては他に例がないほどに輝かしい歴史を持つ動物なので,面白い事実が導き出されるかもしれない。

母の代から飼い猫で,獲物を自分で狩った経験がなく,または母猫に教わらなかった猫であっても,獲物を狩る本能は,すぐに取り戻せるに違いないと思えるほどに残されている。

しかし,獲物を極端に怖がるような飼い猫も多い。多くの猫は,獲物を狩るマネはするが,さらには獲物を捕らえてみたりはするものの,その後どうすれば良いのか解らず,捕獲した獲物をどこかに置き去りにしたり,お土産のように持ってきてくれたり(有難迷惑ですが…気持ちはわかる)つついて遊んだり,または一旦解放してまたすぐに捕獲しようとしている。猫による地獄のキャッチ&リリース。

半死か,死んだふり,または死んでしまった状態の獲物を運んできて,何か言いたげだ。まさに得意そうな様子だったり,にゃー・にゃーに疑問符をつけて「コレ,捕ったんにゃけど,これからどないしまひょ?なあ,なあ?」とキラキラお目目で尋ねてきたり(多分そんな感じ)。

この猫は,親猫と過ごした時間が短く,親も飼い猫であった。という事は,母猫から獲物の狩り方や,殺し方や,食べ方を全く教わっていないと思われる。
それでも,母猫と思っている私のところ(ほぼ間違いなし)へ,自分が取った獲物を運んできて自慢したり,調理法を聞いたり(多分)してくるのだ。

そんな飼い猫が突然に人間社会から,野良猫社会や自然の掟が支配する大自然に放たれてそのままサバイブできるだけの体力筋力があるとは言わないが,「本能」だけは立派に野生そのままで残されている事は,これらの行動から鑑みるに,疑いようがない事実と言ってよいだろう。

さてこれを,飼い慣らされたヒトという動物に置き換えて考えてみよう。

続く

映画【11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち】

・・・を見てすぐに観るのを止めてしまった。
これが映画?いいとこ再現映像でした。
全てにおいて、映画らしいところは何もありません。

配役も大失敗。
三島由紀夫は実写映像も残っていてyoutubeでも見られるので、本人を知らない方は比べてみてください。

思うのですが、いま大人気の山本太郎が、個人的には、れいわの三島由紀夫と思っているというか、重なります・・・右左がどうであれ。

節煙続行中。

まだ禁煙とは言えないから節煙と言っておこう。
有名なザイバンという禁煙補助薬を倍量にしたとたん、タバコを吸いたいと感じることがなくなってきた。あら不思議。

このまま続けばよいが・・・お酒が入ると多分、吸いたくなると思います。
最近は人生で初めて宅飲みしていたのだが、これからは、以前のように誰かと一緒に飲もうと思う。

タバコの値段がどんどん上がる。
たばこ業界は、タバコを止めろと言いたいのか、それとも吸う人が減ったのに合わせて価格を釣り上げているのか...?

タバコの次にはどんな習慣性物質が日常に現れるだろう?

Der Staat gegen Fritz Bauer(アイヒマンを追え!)を観た。

途中で寝てしまったのだが、それはつまらなかったからではない。
そしてエンドロールの音楽が聞こえてきて覚醒した。

こういう曲が好きなので起きてしまった。もう一度途中から見直した。


バウワー役の俳優はかなりクセのある感じ。部下のアンガーマン役はいかにもな感じのドイツ人に見える。

アイヒマンは途中ですんなり捕まえられていた。

内容にはそれほど関心がないので深くは追わない。欧州にいるとテレビをつければいつでもナチスについてやっているので内容に興味も湧かなくなった。

良かったのは雰囲気と音楽。

【神】を信じる者がいなくなった現在、支配者が盾にするものはなにか?

昔は良かった。適当に【】を作って置いておけば、人間たちは勝手に、神の名の下で互いに殺し合い貧困に耐えたり権力の横暴に耐えたり清貧とかいって勝手に我慢してくれたのだから。


しかし今現在、無神論者が増えている
【神】を代理として使えなくなった支配者はこれから何を盾にしていくのだろうか?

政治家の茶番も、全人類の多くがそろそろ見飽きてきただろう。
テレビ・メディアはまだ一応ある一定の信者を保ってはいるものの、これもまた危機に瀕していると言える。

楯にするものが無くなった支配者は、その支配域の人口が多いほど、恐れねばならないだろう。

人口削減計画】などと囁かれているが、それは支配側にとって都合がよい

人類がバカになって記憶力を無くしたら、それこそ都合がよい。



・・・ま、人類は初めから全てを諦めて、なるようにしておけば、一番安全なのかもしれない。

副作用よりも乱用を問題視するアホさ加減

次々と現れては消えてゆく薬たち。

キツイ症状には荒療治が必要なのは,薬に限ったことではない。

重い症状にはよく効く薬が必要とされるのは言うまでもない。

暴れる犯罪者には手錠では足りず,拘束具が必要になってくる。

乱用者は勝手に危険に身を晒しているのだから,放っておけばよい。

「死んでもいいのか?」...だって?

どれだけ甘やかされたのか,それとも自分の子を甘やかしているのか知らないが,はっきり言おう。「死んでも自己責任」とはこのことだろう。

自分の判断で勝手に処方薬を遊びに使う者たちを止められる者はない。

自分の知らない領域に飛び込むには勇気がいる。全てが自己責任だからだ。

そのリスクを冒さずして自分の中での未知の領域,新世界を実体験することは出来ない。

それが怖ければ,手を出さないことだ。そこに『お試し』はない。常に実体験であり,本気の遊びであることを知るべきだ。

乱用者の為に禁止にされる薬物の数々。

何と馬鹿らしい理屈だろう。

いつもはじめは,「従来より安全な...』という謳い文句で発売される薬たち。
乱用者のせいで危険な薬と指定される。

それを受け入れる一般人(人類の半数以上)もアホウ。

私が天才なわけではないが,あまりに短絡的な思考回路の産物であるところの現象について書いてみた。