まずは,母猫から離され,恐らく記憶も及ばない幼児期に人間のところへやってきて,周囲の人間で親のようにふるまっていると認識された人間を親のよう(決定的に親という認識ではないかもしれないが,❝あたかも自分の親である❞かのように,)に扱い執着する状態を,人に当てはめてみる(無理矢理)。
幼いころに,養子として白人の里親の元にやってきて育てられたアジア人種の子供は,はじめは自分を白人だと思い込むようだ。
人間の場合は成長するうち人種という概念(人種と言っても大雑把に,白黒黄と分けられている肌色の違い)を知り,自分と親の人種の違いを知り,強烈なショックを受ける。自分が自分と思い込んでいた存在の根本が崩壊してしまう(アイデンティティの崩壊)からだ。
中には,薄々気付いているにもかかわらず,それを否定し続ける事に執着する者もいるという。前者は相当な短期間のショック状態を経験したあとにトラウマとして残りながらも復活の見込みが十分にあるものの,後者では自分の中に明確な矛盾を抱えたまま生きてゆくことになるので,その緊張状態が精神や社会生活を崩壊させることに繋がる場合もあるだろう。
飼い慣らされたヒトとしての動物,即ち人間社会に生きる人々
飼い慣らされたネコ科動物,飼い猫たち。
同種の動物が,家族という単位を超えた種の集団を形成して生きるとき,その社会には多くの掟が存在し,人間の場合は殺人が法度となるが,喧嘩も争いも絶えることがない。
そこにヒト科動物としての限界が見られる。争う事は,動物世界では当たり前の本能だ。
いくら人間社会が長く続いていようが,発展して宇宙に住もうが,きっと争いの本能までが無くなる事はないのだろうと思う。
しかし,人間として生きていくうえで,何をもって自らを人間とし,社会の目的をどこに設定するのかを考えたときに,「ヒト科動物の本能がそうだから,争うし殺す。」では答えにならないだろう。それは動物の本能であるというだけだ。
「目的などない」のかもしれない。
しかし,多くの人間が「生まれた意味・生きる意味」への答えを求めて生きているのは事実だ。
もちろん,達観した人々もいて,すでに,彼らの思う人生を生きている人たちもいる。
人類愛やモラルを説こうという気もない。
神や宇宙人を引き合いに出す気もない。
しかし,本能に従って生きるだけが良い事だとも思わない。
この世において,何とも宙ぶらりんな存在が,人間という立場だ。
では自然に答えがあるのか?
一つ思ったことがある。
自然・野生動物には,神という概念はない。ここでは便宜的に,「神」という言葉で括られる領域とは,「人間にとって,理解の及ばないモノのとその周辺」であるとする。ここでは,いわゆる「自然の摂理・秩序」という事にしておく。
自然・野生に自然の摂理への疑問がないのは,地球上にある自然・野生の存在は,その摂理・秩序によって生かされているだけであって,そのため「疑問」が湧くことはない。
人間の言う「神」には,人間自身から発せられた疑問符がついている,と私は感じる。
というより,人間には「見えない領域」なのではないのか?と。
自然の領域をはみ出し,高度文明社会を築いてきたが,しかし一方で,その精神は古代も現在も変わることがないのが人間という存在だ。
いつどこで人類の始祖たちは,自然や野生に生きる事を自ら辞退して,動物界唯一の地位を獲得したのだろう?他の集団を殺して生存圏を拡大する,という所までは,社会性昆虫・動物であっても同じことだ。
長くなりすぎているのでここで終了。
